『スクリーミング・イーグルス』のヒストリカルノート  1944年9月、連合軍は第二次世界大戦を早期に終わらせようという無謀な試みを実行しました。マーケット作戦は史上最大の空挺作戦として、新設の第1空挺軍から36000名を越える英米、そしてポーランド兵が参加したのです。参加部隊には英第1空挺師団、米第82空挺師団と第101空挺師団、そしてポーランド第1空挺旅団が含まれ、彼らは空から戦場へ舞い降りました。これらの部隊はガーデン作戦と呼ばれる地上からの第30軍団(第43、第50歩兵師団および装甲援護を与える近衛機甲師団)による支援を受けていました。作戦目標は、アルンヘムへ至る回廊を開通し、ネーダーリーン川を渡ってドイツ本国へ進入することでした。  この計画に参加する空挺部隊は、各国の最精鋭部隊でした。戦闘の全期間を通じて、彼らは他の戦場では見られないような勇気、頑強さ、そして戦闘技術を見せました。この戦いに関する記録のほとんどは、第1空挺師団によるアルンヘム橋での激戦に焦点を当てています。  2個の米空挺師団に関する記述は、特にヨーロッパの文献では大局的視点で描かれているだけです。この優秀な戦闘部隊は、その作戦目標を達成し、第30軍団が通過する地獄のハイウェイを確保しました。マーケットガーデン作戦の全期間を通じて、第82空挺師団は1432名を失い、第101空挺師団は2100名の死傷者を出したのです。  マーケットガーデン作戦は、カナダ第1軍と英第2軍を指揮する第21軍集団司令官、サー・バーナード・モンゴメリ元帥の発案によるものでした。モンゴメリの狙いはオランダ西部のドイツ軍戦線を孤立させ、ジークフリート線の側面を突き、英第2軍にライン川を渡河させようというものでした。第1空挺軍の3個師団が、狭い回廊沿いに50マイルに渡って空挺兵の絨毯を敷き詰めます。4つ目の英空輸師団が後にこれを支援する手筈でした。主要な橋梁を確保した後、英第2軍に所属する第30軍団が回廊を進撃し、99マイル先のツィター・ツェーへ至る予定だったのです。  戦闘開始前、連合軍の作戦立案者たちはドイツ軍は敗走していると信じていました。ノルマンディー戦での破局と、それに続くフランスでのドイツ軍の混沌とした後退、そしてカンブレーでの包囲戦によって、こう判断されたのです。しかし、ドイツ軍部隊はオランダの運河や河川の後方で、新編成の第1降下猟兵軍の前衛と第15軍の先鋒部隊によって防御を固めていたのでした。第15軍は英仏海峡沿岸で孤立していましたが、オランダへの突破をどうにか成功させ、その大部分を脱出させていました。少数の武装SS部隊とヘルマン・ゲーリング師団の補給大隊を含むオランダ北部に散在していたその他の部隊は空軍と海軍から様々な部隊を増強されており、壊滅した国防軍師団の残余の多くも合流していました。この非常に雑多な兵と装備は、指揮官の名前のついたカンプグルッペ(戦闘団)に編成されました。多くの部隊は戦闘経験も訓練も不足しており、重火器も持っていませんでしたが、こうした困難にもかかわらず、彼らは非常に高い士気を維持していました。ドイツ軍兵士はいまや自らの祖国を守る時が来たと感じており、失敗は許されないと覚悟していたのです。  たとえ状況が最悪というわけではなかったとしても、連合軍情報部はアルンヘム周辺のドイツ軍に関する致命的な情報を完全に無視してしまいました。2個の武装SS装甲師団がその近くに集結していたのです。補充と再編成を行っていたこの2つの精鋭部隊は、夏の激戦を生き残った数百のエリート兵を有していました。第9SS装甲師団「ホーヘンシュタイフェン」と第10SS装甲師団「フルンツベーク」は本来の姿の影にすぎないほど戦力を減じていましたが、それでも彼らは合計で約7000名の部隊を有していたのです。重要なことは彼らの後退の際にその装備が失われなかったことで、両師団は多数の装甲車両を有し、火砲はほぼ定数を満たしていました。加えて、多数の対空砲も持っていたのです。軽装備の空挺兵たちに対して、これらの部隊が強敵であることは間違いありませんでした。  9月17日の朝、1545機の輸送機と478機のグライダー、そして1131機の戦闘機が、イングランド中の飛行場から飛び立ちました。この大編隊は幅10マイル、長さ94マイルにも及び、その規模はまさに前代未聞でした。この巨大な空の無敵艦隊から積み荷の兵士たちが舞い降りると、アルンヘムにいた1人のドイツ軍将校が空を漂う白い雪のような落下傘を見つけました。彼はつぶやきました。「9月に雪? そんなはずはない。あれは落下傘だ」と。  ドイツ軍の対応は迅速かつ苛烈なものでした。ドイツ兵が見せた最初の反応は疑いなくプロフェッショナルかつ自己犠牲的だったのです。彼らはすばやく周囲の状況を把握し、各地域の指揮官は手持ちのカンプグルッペを降下してきた連合軍の空挺部隊に対して投入しました。その時点ではまだ作戦の規模と目的を把握していなかったにもかかわらず、最初の決定的な時間におけるドイツ軍の統率は傑出したものでした。英第1空挺師団の第4落下傘旅団長だったハケット准将はこのドイツ軍の対応を「さわるやいなや反応した」と評しました。  米第101空挺師団はそのアメリカ禿鷲の頭部をあしらった師団記章から「スクリーミング・イーグルス」とあだ名されており、彼らはフラーフェとアイントホーフェンの間の運河と河川に架かる橋梁のほとんど全てを確保する予定でした。これによって、アルンヘムに向かう第30軍団に道を開こうというのです。米第101空挺師団は1ヶ所の橋梁の確保に失敗してしまい、これが来たる数日間の非常に重要な鍵を握ることになります。アイントホーフェンの郊外を流れる運河に架かるソン橋は、空挺兵たちが今まさに渡ろうという時に爆破されてしまったのです。ドイツ軍は最後の瞬間まで待ちました。しかし、ついに橋梁の維持が不可能だと悟ると空挺兵たちの目の前で橋を破壊したのです。その結果、運河にベイリー橋を架けるために2日間が費やされました。この遅延は、モーデル元帥に防御と空挺兵たちが占領する地域を奪回する準備の時間をもたらしました。アルンヘム以外の地点で最も入念に準備されたドイツ軍の反撃は米第101空挺師団戦区に対するもので、フェーヘルというオランダの小さな町が大きな焦点となりました。  9月22日の朝、ドイツ軍がテイラー将軍の戦区へと襲いかかってきました。2つの増強されたカンプグルッペが、フェーヘルを東と西から挟撃しました。第一の目標はフラーフェ街道を切断し、フェーヘルを占領して、アイントホーフェンを孤立させることでした。もし必要なら、彼らはアー川とツイト=ヴィルヘルム運河に架かる橋梁を破壊するつもりでした。ヴァルター戦闘団は東から、フーバー戦闘団が西からテイラー将軍の部隊を攻撃しました。タイミングが重要でした。もし2つのカンプグルッペがその攻撃をうまく協調させていたら、アメリカ兵たちはこの小さな村を守り抜くことはほとんど不可能だったでしょう。  オランダ人のレジスタンスが、テイラー将軍にドイツ軍の準備状況を伝えてきました。彼らはドイツ軍の戦力について−たいていは激しい人的犠牲を伴いつつ−貴重な情報を提供しました。このオランダ人レジスタンスのヒロイズムとひたむきな貢献は、真摯に語るべきものです。  この情報を基に、テイラー将軍はドイツ軍の主要目標がナイメーヘン(そしてアルンヘム)への回廊を塞ぐことだと正確に判断しました。フェーヘルにいた唯一の部隊は、英軍の一般兵で増強された第501落下傘歩兵連隊第2大隊でした。テイラー将軍は第506落下傘歩兵連隊に、フェーヘルの北に位置するウーデンから支援するよう命じました。彼はまた、第327グライダー歩兵連隊を北へ移動させ、上記の2個連隊を支援するよう命じました。  ドイツ軍の主攻撃は0900時に開始されました。ヴァルター戦闘団は第2大隊に後退を余儀なくさせ、1100時、ドイツ軍はフェーヘルの突端に到達します。先頭のパンター戦車がフェーヘルに向かって街道を進んできました。57ミリ対戦車砲がドイツ軍戦車に火を吐きました。そのほとんどは効果がありませんでしたが、アメリカ兵の操作班はどうにか1輌のパンターを擱座させることに成功します。残ったドイツ軍装甲部隊は再編成のために後退しました。この短い交戦の後、第506連隊の最初の部隊がフェーヘルに到着し、そのすぐ後ろには第327連隊の1個大隊が追随していました。フーバー戦闘団はどこにも見当たりませんでした。無線装備の欠落が、両戦闘団指揮官の連絡を不可能にし、協同攻撃が行えなかったのでした。  第101空挺師団の砲兵部隊を率いるアンソニー・マッコーリフ准将は、新たな師団司令部を設置しようとしていました。彼はドイツ軍の攻撃が始まった直後にフェーヘルの状況を知り、状況の重大さを認識し、防御の指揮を執り始めます。フェーヘルに部隊が到着するにつれ、彼は様々なドイツ軍の狙いに対応すべく再編成を行いました。落下傘兵たちはすでにその日の戦闘で疲れ果てていたにもかかわらず、必死で対応し、驚くべき身体的頑強さと決断力を示しました。  1400時、状況は安定し始めましたが、ついにフーバー戦闘団が到着し、西側から連合軍の防御陣地を攻めてきました。彼らはすばやくツイト=ヴィルヘルム運河の橋梁一つを占領し、爆破準備を始めました。王立戦車連隊第44大隊のイギリス軍戦車兵が第505連隊の1個中隊と共に反撃を行い、ドイツ軍を後退させました。それ以外にも何度もドイツ軍は攻撃を行い、フェーヘルの南で地獄のハイウェイを切断しました。しかし、これは第327連隊によって排除されました。  激しいフェーヘルの戦いはさらに続きました。戦いはたこ壺からたこ壺へ、家から家へと繰り返され、アメリカ兵たちはあらゆる手段でドイツ軍の前進を防ぎました。午後遅くにはドイツ軍の第107装甲大隊、第723装甲擲弾兵大隊、そして第16擲弾兵大隊の指揮官が死傷しており、ドイツ軍の損害は無視できない段階に達していました。戦闘は日暮れまで続きましたが、夜の帳が降りても、なおフェーヘルと南へ向かう道路は相変わらず連合軍の手中にあったのです。  しかし、北方ではナイメーヘンへ向かう道路が切断されていました。マッコーリフ将軍と第30軍団長ホロックス将軍は、道路を開通するため奮闘しました。この回廊は英第1空挺師団が生き延びるためには、是が非でも開けておかなければならないところでした。さらに、現在の状況はマース川の北岸で戦闘中の連合軍3個師団をも危機に陥れるものでした。大破局が起ころうとしていたのです。ホロックス将軍は日誌に「(この数日間は)私の人生の中で最悪の日々だった」と記しています。  翌朝、ドイツ軍は攻撃を再開しました。前日と同じような挟撃戦術で、ドイツ軍の2つの戦闘団はフェーヘルと橋梁に襲いかかりました。フーバー戦闘団にはフォン・デア・ハイテ戦闘団の降下猟兵が増強されていましたが、またしても両戦闘団の連携はうまくいきませんでした。アメリカ兵たちは敵の各個攻撃を支えることができました。その間に、第30軍団はツイト=ヴィルヘルム運河を渡河し、ドイツ軍の後方を脅かしたのです。  9月23日の午後、マッコーリフ将軍が戦況を安定させたことが、彼自身にも明らかになりました。彼は第506連隊の2個大隊を北へ向かわせ、第30軍団の近衛擲弾兵戦闘グループと合流するよう命じました。2時間に及ぶ攻撃の末、英軍と米軍は手を結びました。地獄のハイウェイはナイメーヘンに向けて開通したのでした。  この戦闘に関する戦後の研究では、ドイツ軍のフェーヘルに対する攻撃は失敗したものの、この24時間の遅延がマーケットガーデン作戦を破滅へ追いやったことを明らかにしています。アルンヘム橋を守る英第1空挺師団は耐えきれず、23日には同橋から駆逐されていました。オースターベークで包囲されていた師団の残余も風前の灯火だったのです。彼らは最終的に、ドリエル川を夜間渡河して脱出しました。マーケットガーデン作戦は失敗に終わったのです。